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カラー

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  • Boonin, David (2011). Robbing PETA to Spay Paul: Do Animal Rights Include Reproductive Rights?, Between the Species, 13(3), Article 1.

 犬や猫は頭数過剰によって大きな苦しみを経験している。この問題を解決する方策の一つが、避妊・去勢手術だ。この対策は、厳密に功利主義的な視点からはまったく正当だ。しかし権利論的な観点ではどうだろうか。避妊・去勢手術は手術を受ける動物自身の利益になるわけではなく、あくまで他の動物の苦痛を減じるにすぎない。だが、「他の動物の利益のためにある動物にコストを課す」というのは、権利論が拒否する典型的な理屈ではないか? 少なくともリーガンが『動物の権利』で展開した権利論によれば、犬や猫に対する避妊・去勢手術は正当化できないと、本論文では結論する。なお著者はこの結論を歓迎するものではなく、この問題がさらに議論されることを望んでいる。

問題

 リーガンは、「生命の主体」である個体は全て「敬意ある処遇」(respectful teratment)を受ける権利を持つと主張している。「生命の主体」である個体とは、一定の心理物理的同一性を通時的に持つ個体であり、1歳以上の哺乳類はおおむねこの種の同一性を持つと考えられている。ある個体が「敬意ある処遇」を受ける権利を持つ場合、その個体を害することで全体としてより良い結果が得られる可能性が高いとしても、その個体を害することは正当化されない。

 では、避妊・去勢手術について考えてみよう。こうした手術が動物、例えば猫のフラッフィー(メス)に与える苦痛は決して瑣末なものではない。フラッフィーは獣医に連れて行かれ慣れない恐ろしい環境に晒され、手術中には痛みがあるか、死のリスクもある全身麻酔をかけられる。手術には感染症や大量出血による合併症のリスクがあり、術後には意識障害、吐き気、身体的不快感が長ければ数日続く。これと同等の質および量の苦痛が、仮にシャンプーやヘアスプレー開発のために動物に課せられるのであれば、それは権利の侵害であるとリーガンは間違いなく考えるだろう。たしかに手術は利益をもたらすが、それはフラッフィー自身を益するものではなく、全体的な苦痛が減るということでしかない。したがって、これはフラッフィーへの避妊手術を正当化する理由にはならない。以上の議論にどう反論すれば良いだろうか。

反論と欠点

パターナリズムによる反論

 一つの反論方法は、避妊手術はコストを上回る利益をフラッフィー自身へ与えると主張することだ。もしそうであれば、狂犬病の予防接種を正当化するのと同じように、避妊・去勢手術もパターナリズムの観点から正当化できるだろう。しかしこの反論には2種類の問題がある。

 最初の問題は、避妊・去勢手術に本当にそのような利益があるのかという点だ。避妊手術が当動物にあたえる利益の候補が二つある。最初の候補として、避妊手術によってメスの乳がんのリスクが低減する。しかしこの利益に訴えることには3点の問題がある。第一に、そもそも乳がんになるリスクは高くない。第二に、最初の発情前に手術を行わないとリスク削減効果は小さい。第三に、去勢手術にはこれに相当する利益がない。利益の第二の候補は、妊娠に伴う負担を取り除けるというものだ。しかしこれにも2点の問題がある。第一に、これもオスには相当する利益がない。第二に、限られた品種を除き、犬や猫が妊娠において大きな外傷を負うことを示す証拠はほぼない。以上を考慮すると、避妊・去勢手術のコストを利益が上回るのはごく限られた場合のみで、典型的な事例では避妊・去勢手術は正当化できないだろう。

 第二の問題はより理論的なものだ。この反論はあくまで「当動物への利益が危害を上回らない限り避妊・去勢手術は許されない」という主張に立脚している。しかしながらこの主張は、犬や猫の頭数過剰という状況を踏まえた時、「避妊・去勢手術は許されない」という単純な主張と同じくらい反直観的ではないだろうか。つまり、こうした状況で避妊・去勢手術を正当化する根拠は「他の多数の個体への危害を防げる」ことだというのが直観的主張なのであって、〔以上の反論はこの直観をうまくとりこめていない〕。

養育の限界による反論

 あなたはフラッフィー1匹を世話することはできるが、子供までは面倒を見きれないとする。かといって、生まれてしまった子猫に対して無責任な態度も取れないとする。この場合の選択は、(A)避妊手術をした上でフラッフィーを飼うか、(B)避妊手術をせずフラッフィーを路上に放置/保護施設に入れるか、になる。(A)のほうがフラッフィーにとって良いのは明らかなので、避妊手術をすることは許容される。このような反論が考えられる。

 この反論の第一の問題は、野生の犬・猫に対する避妊・去勢手術を全く正当化できない点にある。そして第二の問題として、この反論は次のような前提に基づいている。すなわち、「あなたの一連の行為((A))が、それをしない場合((B))よりも個体の状況を改善する場合、その一連の行為はその個体の権利を侵害していない」。しかしこの前提は誤りである。もしこれが正しければ、例えば野良犬を保護した人は、その犬の状況が路上生活時より悪化しない限りで、その犬に対して何をしても良いことになってしまう。

早期手術による反論

 リーガンは、敬意ある処遇を受ける権利を持つのは1歳以上の哺乳類だとしている。この点に注目し、次のように論じることができる。犬や猫は1歳より早期に安全な避妊・去勢手術をすることができる。したがってこうした早期手術であれば権利論の立場と整合的である、と。

 この反論にもいくつかの問題がある。まず、この理屈だと1歳以降の避妊・去勢手術は許されないことになるが、これは元の主張同様やはり反直観的である。またリーガンは、カエルを例に挙げながら、「生命の主体」であるか否か確信が持てない場合には「疑わしきは罰せず」の方針で行くべきだとも述べている。実際、例えば生後3ヶ月のフラッフィーに敬意ある処遇を受ける権利を認めないとすると、多くの人がとても認めないような〔ひどい〕ことも許容可能になってしまうだろう。

安楽死との類推からの反論

 重度の苦痛状態にあり治療不可能な一部の動物について、リーガンは安楽死を許容している。こうした状態に置かれた動物には「苦痛を取り除きたい」という選好があると考えられ、この選好を満たす唯一の方法がその動物を殺すことである場合、安楽死は敬意の原則に適っている、というのだ。これは「選好尊重安楽死」と呼ばれる。同じ理屈で、「選好尊重避妊手術」を考えることができるかもしれない。すなわち、頭数過剰という現状を仮にフラッフィーが理解していたら避妊手術を望むだろう、という前提のもと、その選好を満たすために避妊手術をすることは正当だ、とするのだ。

 しかしこの議論は受け入れがたい。まず、頭数過剰状況を知ったフラッフィーが何を望むかは明らかではない。また仮にフラッフィーが「自分を犠牲にして他者の苦痛を取り除きたい」と望んでいたとしても、この理屈ではあらゆる「選好尊重」行動が正当化されてしまう〔その中には、とても許容できないものもあるだろう〕。

不正に宿されない権利からの反論

 仮に、自分(人間)の産む子供は重度で治療不可な苦痛に常にさらされ数ヶ月しか生きられないとわかっている場合に、それでもなおあえて妊娠・出産する人がいた場合、これは不道徳的だと多くの人が考えるだろう。この点に注目し次のような反論を構成できる。まず、今あげた妊娠・出産の悪さを説明するのに、〔可能的な子供が持つ権利として〕「不正に宿されない権利」(right not to be wronglly conceived)を想定することができるかもしれない。仮にこの権利があるとすると、フラッフィーの事例は権利侵害が不可避な事例になるかもしれない。すなわち、避妊手術をすればフラッフィーの権利が侵害され、避妊手術をしなければ子猫の権利が侵害される。ところで、リーガンはこうした権利衝突時における行動の方針として、2つの原則を提示している。第一の原則「権利拒否最小化原則」は、権利侵害によって受ける不利益は全ての関係者で等しいという仮定のもとで、権利を拒否される個体を最小限にせよというもの。第二の原則「悪化原則」は、権利が侵害された場合の小集団Xの状態と権利が侵害された場合の大集団Yの状況を比較し、前者が後者よりも悪い状態に置かれてしまう場合には、大集団Yの方の権利を拒否せよ、というものだ。ここで避妊・去勢手術の事例に戻ろう。不正な妊娠による子への危害は避妊去勢手術による親への危害より大きいと仮定し、また犬や猫は1匹以上の子を産むと仮定しよう。この時、避妊・去勢手術を行わないという選択は2つの原則を両方とも破ることになっている。したがってこの場合、リーガンの権利論の元でも、避妊・去勢手術を行うことは正当化される。

 この議論にどう応じるべきか。もちろん「不正に宿されない権利」なるものを否定する道もあるが、これを認めたとしても、この反論には多くの問題がある。第一に、フラッフィーの子猫たちの生が、生まれない方が良いほどに悲惨だというのはありそうにない。第二に、仮に子猫の生がそこまで悲惨だと仮定しても、フラッフィーの権利を侵害せず問題を解決する方法がある。すなわち、子猫を生まれてすぐ/離乳してすぐに殺すという方法だ(この殺害は、「選好尊重安楽死」として正当化できるだろう)。第三に、避妊手術を行う場合にフラッフィーの権利を侵害するのは我々だが、避妊手術をしなかった場合に子猫の権利を侵害するのは我々ではない。なぜなら、我々が子猫を妊娠するわけではないからだ。したがって我々としては、避妊手術を行うべきではない。なお、子猫の権利を侵害するのはフラッフィーでもない。なぜならフラッフィーは道徳的主体(moral agent)ではないため、「権利侵害」に相当する行動はできないのだ(リーガンはこの点について、我々は羊を狼から守る義務はないと強調している)。したがって、「権利侵害者の手助けをしてはならない」という根拠から避妊手術を正当化することもできない。

獲得義務からの反論

 Evelyn Pluharは次のように論じている。確かに避妊・去勢手術は、動物の生に干渉してはならないという義務論的理念に抵触しているように見える。しかしながら、私たちは家畜化/飼いならし(domestication)への関与という形で、すでに動物に干渉してしまっている。この事実に加え、さらに動物を引き受けようという意思があるのであれば、それによって我々は相応の義務を獲得することになる。この観点からは、猫・犬やその子供を危険に晒したり、路上に置き去りにしたり、安楽死施設に捨てるなどということは「不干渉」では全くなく、無責任な態度なのだ。

 この議論は、伴侶動物に関してであれば、その安全・健康などを維持する義務の存在を説得的に支持している。しかし、避妊・去勢手術の義務に関してはうまくいかない。というのもこの議論は、「もともと「許容可能だが義務ではない」行為がどのように義務的行為になるのか」を示すものであって、「もともと許容不可能な行為がどのように許容可能になるのか」を示すものではないからだ。第三世界の子供のために薬を買うことは許容可能だが義務ではない。しかしその子供を養子として迎え入れたのであれば、薬を買うことは義務である。これは確かに説得的だ。しかし、第三世界の子供に避妊手術することが許されないのであれば、その子供を養子として迎え入れたとしても、その行為はやはり許されないだろう。またPluharは、「人間の親が12歳の娘の妊娠を阻止する」という事例と、「飼い主が猫の避妊手術をする」という事例を類比的に論じている。しかし、前者が正当なのは当人に危害が及ぶというパターナリスティックな根拠によるのであり、後者にはすでに論じたようにそうしたパターナリスティックな正当化はできない。

まとめと今後の方向性

 リーガンの立場は、少なくとも典型的な事例では、犬や猫に対する避妊・去勢手術を正当化しない。この主張に対する反論を検討したが、そのどれもうまくいっていなかった。では、ここで我々はどうするべきなのか。3つの選択肢がある。

 第一は、この結論を受け入れるというものだ。この時、リーガンのようなタイプの権利論の支持者は、動物の権利論に避妊・去勢手術に反対するべきである。第二は、以上の議論を義務論的アプローチに対する帰謬法として受け取るというものだ。功利主義的アプローチであれば避妊・去勢手術は簡単に正当化できる。このことは、義務論的アプローチより功利主義的アプローチの方が優れていると考える理由となりうる。第三は、権利ベースのアプローチを修正すべきだと考えるものだ。著者としてはこの方向性を最も望んでいる。

修正の方向性を簡単に述べる。次の事例を考えよ。悪気のない(innocent)赤子が知らず爆弾のボタンを踏みそうになっており、それが爆発するとあなたは必ず死ぬ、止める方法は赤子を殺すしかない。この時、赤子には悪気はないとしても、それでもあなたが赤子を殺すことを多くの人は許容可能だとするだろう。同じことは赤子が犬であった場合にも言える。このことを説明するのに、次の要因に訴えることができるかもしれない。「この赤子/犬は、仮にボタンを踏むことの結果を理解できる道徳的主体であったならば許されないような行為をしている」。この要因が成立している場合、赤子/動物の(悪意ない)行為が他者に生じさせる危害と、それを防ぐために赤子/動物自身に課される危害が釣り合っている限りで、赤子/動物に危害を加えて他者への危害を阻止することは許される。このことからの類推で、我々には動物を避妊・去勢する権利があると言えるかもしれない。こうした議論の方向性は避妊去勢手術以外の事例に関する考察に動機づけられており、リーガンの立場を場当たり的に制限したものではない。

 以上の修正案はまだまだ暫定的だが、その他の選択肢より尤もらしいことを示せていればと思う。もし示せていない場合、本論文の議論が間違っていることを願う他ない。

journals.sagepub.com

  • De Neys W. (2021), On Dual- and Single-Process Models of Thinking. Perspectives on Psychological Science.

 明らかな事実として、思考には簡単なものと難しいものがある。このことを説明するのに、人間の心には二種類の質的に異なる心理過程(直観・熟慮)があるとするのが「二重過程モデル」だ。このモデルは極めて人気が高いが、批判もある。批判者は、二つの思考過程の違いは単なる程度の違いだとする「単一過程モデル」を支持する。2つのモデルの争いは長年続けられてきた。

 この状況に対し、本論文は2つのことを主張する。第一に、目下のところ、論争を決着させるような経験的データや理論的原理は存在しない。第二に、仮にこの論争が決着したとしても、それは思考の基盤となる心理処理メカニズムの理解に寄与しない。結論として、経験科学者がこの論争をこれ以上続けることは不毛である。

事前の注意

  • 【二重と多重】

 本論文では「二重過程」という語を使うが、議論は2つ以上の思考過程をおくモデル(多重過程モデル)全てに当てはまる。

  • 【プロセスとシステム】

 二重「プロセス(過程)」と二重「システム」という語を、モデルのスコープの広さ(特殊/一般)に応じて使い分ける人がいる。しかし本論文の議論はどちらのスコープのモデルにも当てはまるので、ここでは両表現を互換的に用いる。

 なお、「二重システム」と呼ばれる見解の中には、直観/熟慮のもつ様々な特徴(早い・楽..../遅い・努力を要する....)は全て共起すると考えるものがある。これは特に「完全連携型」(parfect-alignment)二重過程モデルと呼ぶことにする。

  • 【モデル、理論、フレームワーク、説(view)】

 全て互換的に用いる

  • 【一般的モデル】

 二重過程モデルの具体的な形は主唱者によってかなり異なる。しかし論争の際には、二重過程モデルの支持者も批判者も、なんらかの一般的モデルを想定して話をする傾向があり、これは藁人形論法になっている可能性がある。本論文における「二重過程モデル」は、そうした一般的モデルを指すのではなく、直観的思考と熟慮的思考に質的違いを認めるあらゆるモデルを指す。話がより細かくなる場合は、誰のモデルを念頭にしているか明示する。 

  • 【検討範囲】

 この論文では、思考に関する二重過程モデルのみを扱う。記憶や学習などは直接には取り扱わない。

第1部 両モデルに関する議論

1. 特徴の連携

 二重過程理論は、各過程が持つとされる様々な特徴を列挙した表と共に導入されがちである。実際、そこで提示される特徴の多くが相関しているというのは確かだ。しかしより極端に、これらの特徴は必ず共起すると主張される場合がある。そしてこうした特徴間の完全な連携が、2つの過程に質的な違いがあることの証拠として用いられる(完全連携型二重過程モデル)。

 しかし、完全連携型二重過程モデルには多くの点で問題がある。第一に、特徴の連携は、両過程の質的相違を必ずしも意味しない。逆に、特徴が連携していないからといって、両過程が質的に同じだとも限らない。二重過程モデルは2つの過程が質的に違うと言えればいいのだから、何らかの一次元での質的違いがあればそれで十分である(Evans & Stanovich, 2013; Pennycook et al., 2018)。つまり、連携の問題は過程数の問題とは独立である。

 第二に、特徴間の完全連携は多くの経験的証拠に反している。例えば孵化効果(Wallas 1926)は楽だが時間がかかる思考過程であり、努力と速さが必ずしも相関しないことを示す。また、合理化(Evans & Wason 1976)が示すように、熟慮と正確性は必ずしも相関しない。こうした非連携はこれまでも数多く指摘されてきた。

 ただし特徴の非連携は、二重過程モデルそのものを否定する材料にはならない。二重過程モデルの批判者はしばしばそのように論じてきたが(Keren & Schul 2009; Melnikoff & Bargh 2018; Osman 2004, 2018)、そこでは極端な完全連携型モデルと二重過程モデルそのものが同一視されてしまっている。上述したように、二重過程モデルに特徴の連携は必要ないのだから、連携のありかたを経験的に観察しても論争に決着はつかない。

2. 定義的特徴

 近年の二重過程理論家は完全連携を明確に否定し、二重過程理論はあくまで一つの特徴にかんする質的相違しか主張していないと強調している(Evans & Stanovich 2013; Stanovich & Toplak 2012)。この特徴は「定義的特徴」と呼ばれる。では、定義的特徴とは具体的には何なのか。近年の議論では、特に「ワーキングメモリの関与」、「認知的分離・心的シミュレーション」、「自律性」の3つが候補としてあげられてきた。ここで次に問題となるのは、こうした定義的特徴はその本性上二分法的なものではなく、連続的なものだという点だ。そこで、直観的過程と熟慮的過程を分かつ閾値をどこかに設定する必要がある。しかし現在提起されている定義的特徴はあまりにも曖昧であり、閾値設定は非常に困難なものになっている。具体的に見ていこう。

a. ワーキングメモリ

 記念碑的論文であるEvans & Stanovich (2013) は、熟慮過程の第一の定義的特徴をワーキングメモリへの負荷だとした。この提案の問題は、ワーキングメモリの本性や特徴については非常に様々な見解があるため、さらなる明確化が必要だということだ。また近年、ワーキングメモリ、特にそれを支える制御的注意は、無意識的にも働くことが明らかになってきている(Desender et al. 2013; Jiang et al. 2015, 2018; Linzarini et al. 2017)。つまり、ワーキングメモリや制御的注意の関与は連続的なものだ。この時もちろん、熟慮的思考は直観的思考より広範な注意制御を必要とするという複雑性の違いはある。しかし、両過程を分ける閾値をどう決定すればよいのか。

 ここで、認知的制約をかけた状態でのパフォーマンスの変化に訴えることで、推論過程が熟慮的か否かを操作的に定義することはできる。しかしこのことは、熟慮過程と直観過程が質的に異なることを意味しない。なぜなら、両過程の違いは量的だという単一過程モデルでも、熟慮過程は直観過程より多くの注意制御(ワーキングメモリ)資源を必要とすると仮定できるからだ(Keren & Schul 2009)。認知的制約パラダイムでは、過程の差異が量的か質的かについては何も結論できない。

b. 認知的分離・心的シミュレーション

 Evans & Stanovich (2013) は、熟慮過程の第二の定義的特徴を認知的分離(現実の表象と想定上の表象の切り離し)および心的シミュレーションだとした。確かに一般的な特徴づけとしては、熟慮的思考に仮説的思考が含まれることは多いだろう。しかしこの特徴を、熟慮的・直観的過程を質的に分ける基準とするには、認知的分離・心的シミュレーションをより特定化する必要がある。Stanovich (2011) はその特徴づけと記述に力を費やしているが、現在のところ心的シミュレーションの発生を操作的に測定する方法は明確にされておらず、認知的負荷が大きいなどの相関的特徴が測定されているにすぎない。

 ところで、Evans & Stanovich (2013) はワーキングメモリと心的シミュレーションの2つを定義的特徴としている。つまり、この場合2つは必ず共起しなければならない。しかし、心的シミュレーションを用いるがワーキングメモリが関与しない過程があるかもしれない。例えば後悔はそうかもしれない(Osman 2013)。

c. 自律性

 二重過程理論支持者のなかには、直観過程の定義的特徴として自律性を挙げるものがいる(Pennycook 2017; Thompson 2013)。この場合の自律的過程とは、トリガー刺激に対して実行が強制される過程である。ここでも、一般的な記述としてならこの提案は理にかなっているが、より正確で検証・操作可能な形に落としこもうとするとすぐに問題が生じる。

 ここで重要なのは、ある刺激Xが反応Yを強制的にもたらすかどうかは、現在の課題や目標の文脈に依存していることだ。例えば、「| + | = ?」という刺激に対し、大抵の大人は「2」と考えざるを得ない。しかし例えば、「与えられた複数の縦棒を横にして連結した場合の長さを求める課題」に習熟していれば、「| + | = ?」には「____」が浮かぶだろう。したがって、自律性の存在を主張するためには、目標文脈を確定するための独立したテストが必要になる。しかしこのような特定化はこれまで全くなされていない。
 
 なおEvans (2017, 2019) は、自律性は直観的思考の定義的特徴としては広すぎると見解を改め(多くの低次の知覚過程までもが直観的思考になってしまうため)、次の追加基準を提案している。典型的な直観的思考において、主体はその出力を意識する(例えば簡単な計算の場合、その答えが正しいと感じる(Thompson et al. 2011))。つまり、直観的思考過程はその動作においてはワーキングメモリを必要としないが、アウトプットをワーキングメモリにポストするという点で、知覚過程などとは異なる。この提案は様々なタイプの直観過程を区別できる点で興味深いが、過程の数をめぐる目下の論争には役に立たない。自律性とワーキングメモリという2つの曖昧な概念をどう測定するのかという問題が引き続き残っているからだ。

小括

 以上のように、これまで提案されてきた定義的特徴は十分に定義されていないため、質的に異なる処理をもたらす正確な閾値を設定することができていないという一般的な問題がある。

3. 基準S

 Sloman (1996) は、人が矛盾した信念を同時に持ちうることが二重過程モデルを支持すると主張した(「基準S」)。というのも、質的に等しい推論システムは、一度に一つの応答しか出すことができないと考えたからだ。この議論は繰り返し批判されてきたが(Gigerenzer & Regier 1996; Keren & Schul 2009; Osman 2004)、現在でも二重過程モデルの正当化に用いられ続けている(Hoerl & McCormack 2019)。しかしこの議論の問題点は、「相矛盾する同時的反応は質的に異なる推論過程から生じているはずだ」という仮定を支持する経験的証拠がない点だ(Keren & Schul, 2009)。

4. 倹約

 ここまでで、単一過程モデルと二重過程モデルの論争を経験的に決着することが難しいと述べてきた。そこで一部の研究者は、より理論的考察に訴えて決着をつけようとしている。例えば、理論的倹約の観点から単一過程モデルが支持されるという議論がある(Hammond 1996; Hayes et al. 2018)。しかしこれは誤りである。単一過程モデルは、過程数こそ少ないが、それ以外の点で多くの理論的過程を必要とする(Gawronski & Creighton 2013, Kruglanski & Gigerenzer 2011)。倹約性はすべての理論的仮定の観点から評価されなければならないため、単に過程数が少ないという理由だけで単一過程モデルが支持されるわけではない。

5. 科学的誤情報論法

 二重過程モデルに対し、次のような実践的な反論がよくなされる。過程の二重性に明確な証拠はないが、しかし二重過程モデルは単純なので人の心に入りこみやすく、科学者の思考をゆがめたり大衆に誤情報を与えてしまう、というものだ(Cokely 2009; Melnikoff & Bargh 2018; Osman 2004, 2018)。

 この議論には様々な反論がありうる。第一に、過程が一つだという主張にも決定的な証拠はないのだから、誤情報を与える点では単一過程モデルも同罪である。第二に、どのような科学的主張も誤って解釈される可能性がある(Chater 2018)。単一過程モデルは、熟慮も直観も大して変わらないという推測を生み、熟慮を避ける口実に使われるかもしれない。単一過程モデルと二重過程モデルのどちらが誤解されやすいかに関する実証的データはなく、科学者は強い主張を控えるべきだ。第三に、二重過程という概念が科学の進歩を妨げるという一般的な主張はすぐに反証できる。実際、例えば推論中の葛藤検出にかんする多くの発見が、二重過程的なフレームワークの中でなされてきた。もちろん、こうした知見は単一過程モデルでも容易に説明できるので、二重過程モデルが一方的に支持されるというわけではない。しかし二重過程的フレームワークは、いわば便利なコミュニケーションツールとしての役割を果たしてきたと言えるだろう。

第2部 論争の不毛さについて

 第1部では、これまで30年に及ぶ議論の中で、単一過程モデルか二重過程モデルかを決する良い証拠は提出されていないことを明確にした。では、これからはより良い実証的証拠をさらに探すべきなのだろうか。そうではなく、この論争はもう終わらせるべきだ。それには二つの理由がある。第一に、この論争が解決可能なのか疑問である。第二により重要なことに、この論争はたとえ解決したとしても、人間の思考に関する心理学的理解を深化させない。

1. この論争は非経験的である

 これまで強調してきたように、定義的特徴の特定や閾値の設定、閾値の上下での過程が質的に異なることの確認、などは非常に複雑で、どのような実験をすれば問題を解決できるのか全く明らかではない。しかしより一般的に、そもそもこの論争は経験的データでは決着がつかないと論じることができる。Gawronski et al. (2014) が指摘しているように、何が「本当に」存在しているのかに関する主張は、経験的にテストできない形而上学的なものだと考える長い哲学的伝統がある(Popper 1959, Quine 1960, Whitehead 1978)。つまり、量的変化なのか質的変化なのかという議論には、〔その状況をどのような言葉で表現すべきかという〕意味論的な議論と結びついており、後者において経験的データはほとんど役に立たないのだ。

2. この論争はどうでもよい

 仮に論争が決着したとしても、心理学はそこから何かを得られるのだろうか。2過程の差異が質的か量的かが分かっただけでは、それら過程の働きや相互作用についての何も予測も得られない。具体例で考えよう。この分野において重要な問題に、どうすれば人の推論を最適化できるかという問題がある。仮に、ある課題において、熟慮が最適なパフォーマンスに繋がることが分かっているとする。ここで、熟慮と直観の間には質的な差異があり、熟慮は直観とは違ってワーキングメモリに負荷をかけるものだとしよう。この時、推論を最適化するためには、ワーキングメモリを鍛える介入が有効だろう。他方で、熟慮と直観の間には量的な差異があり、熟慮は直観よりもワーキングメモリに大きく負荷をかけるとしよう。この時も、推論を最適化するためには、ワーキングメモリを鍛える介入が有効である。つまり、二過程の差異が量的か質的かという問題は、介入方法の選択には全く関係がない。この意味で、質対量の議論はどうでもよいのだ。

 思考の心理学に関する他の重要問題として、例えば次のようなものがある。第一に、直観/熟慮はどのような帰結を生むか。例えば、論理的推論、道徳的決定、利他的行動、フェイクニュースへの敏感さなどのありかたは、先立つ思考が直観的か熟慮的かによって(どう)変わるのか。第二に、人はどのような場合に熟慮するのか。第三に、直観的思考と論理的思考の時間的関係はどうなっているのか。同時に遂行可能か、一方が増えればその分他方が減るのか、全く独立なのか、云々。両過程の差異が質的か量的かが分かっても、こうした問題に対する答えへは一歩も近づけないことは明らかである。

結論:先に進むとき

 二重過程モデルと単一過程モデルの論争は解決されておらず、解決できるかどうかもわからないし、解決されたとしても人間の思考を支える処理メカニズムについての理論構築には役に立たない。この論争は思考についての実証的研究にとってはどうでもいいものである。研究者の時間と資源は限られているのであり、もっと重要な問題に力を傾けるべきだ。

jme.bmj.com

  • Julian C Sheather, 2012, "Withdrawing and withholding artificial nutrition and hydration from patients in a minimally conscious state: Re: M and its repercussions", Journal of Medical Ethics, 39(9), pp. 543–546.

 2011年、イギリスの保護裁判所は、8年間最小意識状態(MCS)にあったM氏について、人工水分・栄養補給を停止するのは違法だと判決を下した。これは、MCS患者の人工水分・栄養補給停止にかんするイギリス初の法的事例だとされている。以下ではこの判決の法的特徴を概説する。なお家族によると、M氏は完全な依存状態で生きたくはないと述べていたが、しかし治療を拒否する正式な事前決定は行っておらず、また代理人も指名していなかった。

背景1: 「代理判断」と「最善の利害」

 M氏のように自己決定能力のない成人にかんする判断にかかわる法律として、英国では2005年に意思能力法が施行されている。しかしこの法律以前から、コモンローとして、財産などにかんする決定と福祉にかんする決定が区別されてきた。すなわち一方で財産にかんする決定では、裁判官は「代理判断」テストを採用し、「当人に決定能力があれば何を望んだか」を判断しようとする。このアプローチでは、当人の事前の自律性が比較的尊重される。他方で福祉にかんする決定の場合、利害と負担のバランスを見る「最善の利害」テストが採用されてきた。このアプローチでは、事前の希望も加味されるが、現在の福祉がより重視される傾向がある。

 意思能力法2005では、判断は「当人の最善の利害においてなされなければならない」としている。最善の利害の決定にあたって考慮すべき事項の一つは、当人の過去の希望や感情だ。ただしその他の考慮すべき事項として、当人の現在の希望や感情、当人の信念や価値観、当人が助言者として指名した人の見解、当人のケアに従事している人の見解、が挙げられている。M氏のように過去の希望・感情について証拠が不十分な場合には、現在の福祉とのバランスをとることが求められる。

背景2: 延命治療の撤回

 延命治療の撤回について、意思能力法2005には意思決定者の動機にかんする制約がある。すなわち意思決定者は、「その処置が当人の最善の利害であるかを考慮する際に、その人に死をもたらそうという欲求に動機づけられていてはならない」。またM氏の場合、裁判官は意思能力法2005の行動指針も参照した。そこでは、「延命治療に効果がない、患者にとって極端な負担である、あるいは回復の見込みがないといった、ごく限られた場合」には、延命治療の撤回が当人の最善の利害であるかもしれないとされている。さらに裁判官は、遷延性植物状態(PVS)患者の延命治療停止を合法とした判例(Tony Bland事件)からも指針を得た。すなわち強力な大前提として、治療上の目的を達成する見込みが合理的であるかぎり延命治療はなされなければならない(「生命の神聖さ」の原理)。場合によっては、この原理の力は利害と負担のバランスの影響を受ける。ただし、PVS患者のように治療が「不毛」であるごく例外的な場合には、神聖さの原理は適用されない。

M氏の最善の利害にかんする判断

 以上から分かるように、M氏にかんする判断は当人の最善の利害に基づいて下される法的義務があった。では、最善の利害の評価にあたって裁判官はどのような要因を考慮したか。

MCSの診断

 裁判官はMCSとPVSの違いに言及した。すなわち「M氏は、感覚をもち、臨床的に安定しており、自身と環境に気づき、人や音楽に反応し、また極めて限定的ではあるが自身のニーズを伝達することもできる。つまりM氏は、植物状態の患者にはない仕方で、認知的に活発である(recognisably alive)」。「認知的に活発」なMCS患者とそうではないPVS患者という区別は、最善の利害を評価する際に極めて重要な区別である。

親族・介護者の見解

 意思能力法2005に従い、M氏をケアする人々の証言が集められた。これにより、M氏の現在の状態が評価された。

M氏の希望と感情

 意思能力法2005に従い、M氏の希望・感情は当人の最善の利害を決定する一要因である。前述のようにM氏は法的拘束力のある事前決定をしていなかったが、弁護側と親族は、M氏の過去の希望と感情が決定的要因になるべきだと主張した。ここで弁護側は、過去の希望・感情と現在のそれが異なるかもしれないという重要な問題について次のような見解を示した。すなわち、確かにM氏の現在の利害は過去のそれと異なっているかもしれないが、そうだとしても、MCSになった現在のM氏の利害は極めて些細な(marginal)ものに過ぎず、事前に表明していた利害に優越することはない、と。これに対し裁判官側の見解では、M氏の過去の発言が十分考え抜かれたものであることを示す明確な記録がない以上は、M氏の自律の尊重は決定的な要因にはなりえず、現在の福祉を強調しなければらない。

尊厳

 尊厳は、意思能力法2005では論点として定められていない。しかし弁護側は、M氏の現在の状況は尊厳を欠いており、延命治療の停止によって尊厳が促進されると論じた。これに対し裁判官は、十分ケアされ快適で可能な限り苦痛のない障害者の生には尊厳があるとした。

快と苦のバランス

 過去と現在の利害にまつわる問題に続き、M氏の現在の経験における快と苦のバランスが評価された。専門家の証言に基づき、M氏は定期的に痛みを感じるが、常にではなく、その強さが極度のものだと考える証拠はないとされた。他方で楽しみについて、専門家はM氏の生は楽しみの面ではせいぜい中立的なものにすぎないと意見したが、裁判官はこの見解を退け、障害者の生における快は時として小さいが軽視すべきではないと主張した。

判決

 最終的に、裁判官はM氏の事前の希望には決定的重要性を与えなかった。M氏の生にはいくらかのポジティヴな快が含まれ、それはさらなるケアによって増える可能性が高いとされた。裁判官の見解では、生命の神聖さが決定的要因であり、人工水分・栄養補給を中止することはM氏の最善の利益にはならない。

展望

 最後に、今後の類似事例について裁判官は以下の勧告を行った。まず、VSまたはMCS患者に対する人工水分・栄養補給停止の申請は全て、高等法院の裁判官に対して行わなければならない(保護裁判所実務指示書9E第5項)。次に、以下の(1)と(2)を満たさない場合、VSまたはMCS患者に対する人工水分・栄養補給停止の申請を行ってはならない。すなわち、(1) 意識障害の診断のために、"Sensory Modality Assessment and Rehabilitation Technique"(SMART)か、その相当物が実施されていること。(2) MCSと診断された患者の場合、 "Wessex Head Injury Matrix"(WHIM)による評価が長期間実施されていること。

jme.bmj.com

  • Dominic Wilkinson & Julian Savulescu, (2013), "Is It Better to be Minimally Conscious than Vegetative?", Journal of Medical Ethics, 39(9), pp. 557–558.

 ある患者に対する人工栄養補給停止の是非が争われた裁判のなかで、患者が遷延性植物状態(PVS)ではなく最小意識状態(MCS)であったことを根拠に、栄養補給を続けるべきだったという判断が下された。しかしこのようにPVSとMCSを区別する根拠は、以下のようにどれも十分なものではない。

  • (1) 予後の良さ

 いくつかの研究によれば、PVSはMCSと比べて確かに予後がよい。しかし、状態改善が見られるMCS患者の割合や回復の度合いには限界があるのも事実だ。したがってこの論点から言えることは、MCSにおいてはPVSよりも治療停止の決断を下すまでの時間を長くとるべきだ、程度のことでしかないだろう。

  • (2) 意識の有無

 PVS患者と異なりMCS患者には意識があるため、そこから何らかの利益を得ているかもしれない〔。したがって、治療停止によってそれを奪うべきではない〕。だがここでは逆に、MCS患者には痛みのような否定的経験がある可能性をも考慮しなければならない。実際ニューロイメージング研究によると、MCS患者の痛みに対する脳活動のパターンは、完全に意識ある被験者と同様であり、PVS患者よりかなり大きい。すると問題は、ネガティヴな経験の強さや長さが、ポジティヴな経験のそれを上回っているか否かという点になるだろう。深刻な苦痛や有意味な快があるとわかっている場合は、確かに治療の停止/継続の根拠になるかもしれない。しかし患者の経験の性質について不確実な場合、意識があるということだけでは治療続行に賛成する理由にも反対する理由にもならないだろう。

  • (3) 現在の希望の伝達可能性

 PVS患者とは異なりMCS患者は、高度な技術が発展した場合、自身の希望を伝達することができるかもしれない。この場合、自律性を重視し、治療のありかたは患者本人が決めるべきだろう。しかし現在のところそうした技術はないし、さらにいわゆる「隠れた認知」(covert cognition)はMCS患者の一部にしか見られないようだ。

  • (4) 過去の希望

 仮にある人が、あらかじめ、「PVSになったら治療をやめてほしいがMCSであれば治療を継続してほしい」と言っていたとしよう。これは両状態での治療方針を区別する一つの根拠になるだろう。しかしもちろん、MCSよりPVSの方が悪いと考える人もいるかもしれないし、両者を区別せずどちらも等しく悪いと考える人もいるかもしれない。

  • (5) 配分的正義

 ここまでの検討から、MCSがPVSよりも患者にとって良い状態とは考え難い。その上で、もし両者の治療コストに差があるならば、配分的正義の観点から言って、両者の治療方針を区別することには根拠があるだろう。しかしながら、MCS患者の長期のケアのコストがPVS患者のそれより低いと考える理由はない。また、仮にMCS患者の延命に何らかの利益があると仮定しても、その大きさは、同じ医療資源を別の仕方で使う場合に得られる利益よりも小さいだろう。


 確かにMCS患者の一部は、(1)〜(4)の観点から言って、PVSと異なり治療を継続すべきだと言えるかもしれない。しかし、MCSがPVSより必ず良い状態だとは言うことはできない。さらに(5)配分的正義を考慮すると、治療を中止すべき場合もあるだろう。

link.springer.com

  • Matthew Braddock, 2017, "Should We Treat Vegetative and Minimally Conscious Patients as Persons?", Neuroethics, 10 (2), pp. 267–280.

 遷延性ないし持続的植物状態(PVS)の患者は人格(Person)なのだろうか。PVS患者は意識を不可逆的に欠いているために、人格であるために必要な能力を欠いており、従って人格ではないという議論がしばしばなされてきた(McMahan 2009, Brody 1989, Harris 1995, McMahan 2009)。

 このタイプの議論に対しては「診断の不確実性からの反論」を提起することができる。これまでの多くの研究によると、PVSと診断された患者が実際に意識を失っている確率は約6割ほどしかない。つまり、約4割の患者はPVSだと誤診されており、実際には意識がある。誤診されたPVS患者のうち、41%は最小意識状態(MCS)であり、35%が閉じ込め症候群(LIS)ないし「暗黙の気づき」(covert awareness)*1状態にあるという研究もある(Schnakers et al., 2009; Stender et al., 2014)。この状況を踏まえると、「PVS患者は意識を不可逆的に欠く」という前提は成り立たない。

 しかし近年、診断の不確実性を考慮した上でも、やはりPVS患者は人格ではないとする新しい議論が提起された(Levy & Savulescu 2009)。この議論は、PVS患者がMCSである可能性を認めた上で、しかしMCS患者も人格ではないので、いずれにせよPVS患者も人格ではない、と進む。MCS患者は確かに意識的ではあるが、人格性に必要なほど洗練された認知能力や自己意識、心理的連続性を持たない公算が非常に高く、従って人格ではない非常に公算が高い、とされる。

 この議論に対して、「人格の不確実性からの反論」を提起したい。つまり、MCS患者が人格でない公算は非常に高いとまでは言えない。むしろMCS患者が人格かどうかは、少なくとも不確実だと言うべきである。この主張はまず、人格性の根拠に関する広範な不一致によって動機づけられている。人格性の根拠になるものは何なのか、一定の認知能力や心的特徴だとして具体的には何なのか、具体的にわかったとしてそれがどの程度必要なのか、哲学者のあいだで合意はまったくなく、MCS患者が人格だと言えるかどうかは不確実である。

 さらに、人格に必要な程度の能力や特徴が定まっているとしても、MCS患者がそれを持っていないという主張を疑うべき理由が3つある。

  • 1. MCS内部の多様性

 同じくMCSと診断される患者の中でも、その正確な状態には非常に大きなばらつきがある。実際、MCSを離散的なカテゴリーではなく、能力と反応性におけるスペクトラムだと考える神経科学者もいる。また状態のばらつきに対応して、予後やアウトカムにも大きなばらつきがあり、中には高度な認知能力を発揮できるようになるまで回復する患者もいる。

  • 2. 傾向性の問題

 能力というのは傾向性なので、MCS患者が今現在ある能力を発揮していないからといって、その能力を持っていないとは限らない。実際、少なからぬ数のMCS患者が高レベルの認知能力を発揮するまで回復するということは、この点を裏付けるものだ。

  • 3. 具体例から

 MCS患者は、例えば、特定の曲がかかると必ず涙したり、一定の音楽やテレビ番組、親しい男性介護者に反応して笑顔を見せたりする。これは人格性に必要な心理的連続性の表れではないのか? また、気分の良さを伝えているように見えたり、自分の結婚式のビデオを見て苦痛を感じているというのは、自己意識の能力を持っているからではないのか。患者がこうした能力を持っているか否かについては、こうした具体的証拠を踏まえると、むしろ判断を保留すべきだと思われる。

 このように、現状、MCSやPVSと診断された患者が人格であるか否かはかなり不確実な事柄だと言える。ではこの不確実性に直面して、医療上の意思決定はどのようになされるべきだろうか。この場合、以下のような予防原則に従うことが推奨される。

  • 予防的人格

 Sが人格であるか否かが十分に不確実な場合、Sを人格として(人格の持つ重要な権利を持つものとして)扱え。ただしこうした扱いが、その他の明らかに人格である個人の同等に重要な権利を侵害するとわかっている場合は、この限りではない。

 「予防的人格」原理を動機づける議論はいくつかある。そのうちの一つは、次のような非対称性に訴えるものだ。すなわち一方で、「予防的人格」を採用してSが人格でなかった場合、それで誰かの権利を侵害することはない。他方で「予防的人格」を採用せずにSが人格であった場合、その権利を侵害するという非常に大きな問題が生じる。従って、最悪の道徳的結果を避けるためには、「予防的人格」に従うべきなのだ。

 この原理をPVSやMCSに適用するとどうなるか。PVS患者やMCS患者を人格として扱うことは、その他の人格の同等に重要な権利を侵害するだろうか? この問題は、こうした患者のケアにどのくらいのコストがあるかにかかってくる。確かに、相対的に貧しい社会では、PVS/MCS患者の救命措置と明らかな人格を対象とする救命措置が衝突するかもしれない。しかし米国のような豊かな社会では、極端に珍しい状況(トリアージや自然災害、希少な臓器の分配など)でない限り、こうした衝突が生じることは明らかではない。

 もちろん、PVS/MCS患者のための資源を明確な人格へ向ければ、その分だけ後者に医療上の利益が与えられる。しかし、両グループの同等の権利をどちらも尊重することは可能だと思われる。次の2点に注意せよ。まず、PVS/MCSは決してよくある状態ではない。正確な推定は難しいが、米国では15〜30万人ほど〔全人口の0.0005〜9%〕だと考えられている。第二に、PVS/MCS患者を効果的にケアするためのコスト(経管栄養、抗生物質、看護ケアなど)は、他の治療(ICUでの治療など)と比べて比較的小さい。ただし、稀少な臓器の分配という局面では事情が異なる。資金不足ではなく臓器不足の場合、確かに競合は生じるため、「予防的人格」原則は明確な人格の方に臓器を与えることを指示するだろうし、これは直観的にも正しいだろう。しかし何れにせよ重要なのは、PVS/MCS患者に対する標準的なケアの点では、権利の明確な対立は存在しないということだ。

*1:PVSの基準を満たすが、ニューロイメージング技術によって意識的気づきや様々なレベルでの認知機能が確認できる状態

  • Walter Sinnott-Armstrong (ed.), Finding Consciousness: The Neuroscience, Ethics, and Law of Severe Brain Damage. Oxford University Press
    • 8. Will Davies & Neil Levy, Persistent Vegetative State, Akinetic Mutism and Consciousness. (pp. 122–136)
意識の科学の方法論的前提

 近年、遷延性植物状態(PVS)と診断された患者に意識があることを示すとされる研究が盛んに行われてる。重要な研究であるOwen et al. (2006) は、PVS患者にテニスをするところや自分の家を歩き回ることをイメージするように指示し、引き続く脳活動が健常な対照例の脳活動と類似していることを見出した。この研究をもとにMonti et al. (2010)は、PVS患者はイメージするものを変えることでyes/no式の質問に答えられることを示した。

 こうした研究からPVS患者に意識があるという結論に至る推論は、次の2つの前提を用いている。

  • 【命令遵守】:命令遵守は意図的な行為者性のマーカーである
  • 【行為者性】:意図的な行為者性は意識のマーカーである

 すなわちここでは、命令遵守(command following)を意識のマーカーとする基準が採用されている。この基準は確かに通常の被験者に対しては便利なものだが、重度の脳損傷患者への適用には問題があると以下で論じる。

命令遵守と無動無言(Akinetic Mutism)

 上記の研究に登場するような反応性のPVS患者たちは、無動無言(AM)患者と多くの類似点を持つという指摘がある(Klein 2015)。AM状態とは、覚醒はしているが、長期的に著しく反応性を欠く状態のことだ。具体的には、自発的な運動・言語活動がなく、痛み、乾き、上に対して無関心で、感情は平板であり、抑鬱的ではないが無気力状態にある。

 AM患者は内因的に意図を形成することができず、従って内因的な行為者性を欠くが、しかし教示に従い質問に答えることができる。さらに、適切な促しがあれば、問題を読み回答するといった複雑な活動を行うこともできる。こうした反応を、「刺激喚起型認知(stimulus-evoked cognition)」と呼び、内因的な意図や行為から区別しよう。AM患者は確かに命令に基づいた行為をするが、それは刺激喚起型認知によるものであり、内因的な意図に媒介されていない。従って、AM患者では【命令遵守】は成立していないと言える。

 また、PVS患者とAM患者における脳の損傷部位はかなり重複している。特に両事例ともに前補足運動野(SMA)を損傷しているが、この部位は意志的で内因的な行為と関連すると考えられている。

 こうした行動上および神経上の類似を踏まえると、実験者の要求に対して反応性のPVS患者が示す反応は、AM患者とそれと類似(さらには同一)なのではないかと考えることが理にかなっている。この場合、反応性のPVS患者は刺激喚起型認知を示しているに過ぎず、内因性の意図を示しているわけではないことになる。そうであるならば、ここでも【命令遵守】は成立していない。

 次のような反論が考えられる。刺激に喚起される形とはいえ、PVS患者は意図的反応(内的な動機状態によって開始・誘導される反応)ができるのだから、行為者性があると言えるのではないか、と。しかし、単に意図的反応ができることは行為者性を持つには十分ではない。行為者性とは単に反応できる能力ではなく、刺激から比較的独立に行為できる能力であって、反応の柔軟性を必要とする。つまり、単に意図を形成することでは十分でなく、内発的に意図を形成することが必要なのだ。PVS患者もMA患者もこの意味での行為者性を示さない。

 もちろん、「行為者性」をより軽い意味で使うことはできる。しかしその場合、そこから意識への推論は説得的ではなくなる。実際、外因的で固定的な意図的反応を行為者性の発揮だとみなすとしても、行為者性の発揮がその程度のものでしかないのであれば、意識のほうもよくて刺激依存の一時的なものにすぎないだろう。つまり、PVS患者は刺激喚起型の意図的反応を示しているまさにその時に限って意識的だ、以上のことは言えないと思われる。これに対して、内因的で柔軟な反応を要求するより強い意味での行為者性があるならば、持続的な意識状態が存在することのより強力な証拠になるだろう。

意識帰属への別ルート?

Colin Kleinは、AM患者における【命令遵守】成立に懐疑的でありながらも、しかしAM患者にはやはりある意味で意識があると論じている。もしそうであれば、PVS患者にも意識があることになるだろう。そこで、このKleinの議論を検討しよう。

 Kleinは、AM患者は焦点意識(注意を伴う)を持たないが辺縁意識(注意を伴わない)を持つと主張する。しかしこの点は目下あまり重要ではなく、より注目すべきなのは意識帰属の根拠である。意識帰属にあたってKleinが依拠する根拠は、[1] AM患者の自己報告と、[2] AMから回復した患者の事後報告、の二種類だ。しかし、このどちらにも問題がある。

  • [1] AM患者の自己報告

 こうした自己報告はさらに2つの事例に分けられる。第一の事例は、問題の患者が軽度のAMで、ある程度は自発的活動ができる場合。この事例には2つの懸念点がある。まず、そもそも軽度AM患者には内因的な行為者性が残っているのだから、その人への意識帰属はその内因的行為者性に基づけばよく、患者の自己報告が意識帰属に果たす重要な役割は存在していない。第二にPVSとの関連でいうと、PVS患者が類似しているのは極度のAM患者であるため、軽度AM患者の自己報告がPVS患者に関する議論にどう関連するか不明である。

 第二の事例は、問題の患者が極度のAMである場合。この場合、自己報告は刺激によって喚起されることになる。しかしここで思い出すべきなのは、Kleinは刺激喚起型認知が意識帰属の根拠にならないと認めている点だ(=AM患者における【命令遵守】の成立に懐疑的である)。そうである以上、刺激喚起型の意識報告もやはり意識帰属の根拠にならないと結論すべきである。

  • [2] AM回復患者の事後報告

 極度のAMから回復した患者たちは、自身の状態を「心が空白だった」、「何も考えてなくて、何も欲しくなかった」、「将来の見通しがなく、自分の考えが何もなかった」などと記述している。これらの記述はかなり興味深いが、AM時に意識があったことの明白な証拠とは言い難い。まず、極度のAMが非常に奇妙な状態であることを考えると、回復患者の証言の質や正確性には一般的な懸念が残る。次に、これらの記述が常に不在や無能力の語彙でなされていることに注目しよう。こうした記述はむしろ、意識がなかったことを言い表そうとしているものだとも考えられる。

 ここで、次の点が指摘されるかもしれない。AM患者は刺激喚起型認知が可能である以上、情報に対して一定の感受性を持っている。そこで、回復患者が回顧を行うときには、AM時に認知システムが利用した情報内容にアクセスしているのであって〔、その事後報告は信頼できる、〕と。しかし、通常の主体であれば意識するような情報内容を思い出すということは、意識〔経験それ自体〕を思い出すということではない。

道徳的地位の問題

 最後に次の点を検討したい。仮に、Kleinが正しく極度のAM患者には「辺縁意識」があり、従ってPVS患者も同様に辺縁意識を持つとしよう。このときこうした患者は、通常の主体と等しい道徳的地位を持つだろうか。持たない、と考えられる。ある主体の道徳的地位を裏付けするのは、現象的意識を持つ能力ではなく、洗練された認知能力である。ある程度洗練された認識能力を持たない存在は、自分の生に関心を持つことがそもそもできないからだ。そうした認知能力に利用可能な情報を備えている状態を「情報意識」と呼ぼう。この情報意識と、AM患者・PVS患者が持つとされる「辺縁意識」はどう関係するだろうか。

 一つの解釈によれば、辺縁意識とは主体によって注意されていない状態である。これは現象的意識の一部だと考えることができる。しかしすでに指摘したように、現象的意識だけを持つ存在は関心をもつことができない。別の解釈では、辺縁意識とは背景的な気分のようなもので、認知システムに利用可能な情報を持つ。しかしこの場合でも、認知能力に提供できる情報があまりにも薄すぎるため、辺縁意識を持つ主体が関心を持つとは言い難い。

 ただし、話はより複雑である。例えば、患者が痛みや快の辺縁意識を持つ場合には、そうした状態を考慮すべき道徳的義務が発生するかもしれない。また別の論点として、無反応な患者に指令を与えることで、その意識状態を、注意されておらず内容不確定な状態(辺縁意識)から、より注意され内容豊かな状態(焦点意識)へ移行させることができるかもしれない。これによって痛みや快の焦点意識が生じるならば、それを考慮する道徳的義務の存在はより明らかだろう。

 ただし、意識の道徳的重要性の根拠はその現象的側面ではなく、むしろ意識が心的生活全体のなかで果たす役割にあると考えることもできる(Levy 2009)。この場合、AM・PVS患者が痛み/快を感じるとしても、それは患者にとって悪い/良いものではない、ということになるだろう。

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/bioe.12874

  • Bruce Blackshaw and Daniel Rodger, 2021, If Fetuses are Persons, Abortion is a Public Health Crisis, Bioethics, 35 (5): 465-472.

 中絶をめぐる生命倫理学の議論の中で、ジュディス・トムソン(Judith Thomson)の「中絶の擁護」(A Defense of Abortion, 1971)は、胎児が人であると仮定してもなお中絶を擁護できるという議論を展開した点で画期的でした。これに対して以下で要約する本論文は、公衆衛生(Public health)というトムソンが想定していなかった新たな視点を導入することで、「胎児が人であるか否か」はやはり中絶をめぐる議論の中で重要だと論じています。

   ◇  ◇  ◇

 伝統的に、生命倫理学は個人の自律や権利を重視してきた。しかし、個人ではなく人口単位での健康の保護・促進が問題となる公衆衛生倫理では、生命倫理的な原則を単純に適用することは難しいと考えられている。実際、公衆衛生倫理分野では何らかの形態の功利主義が支持されることが多く、人口レベルの健康が十分に向上するのであれば、個人の権利を拒否(override)することも正当だと論じられる。同じ結論は、他者危害原則からも導かれる。公衆衛生の文脈では、危害とは人口レベルの健康の低減、すなわち疾病率と死亡率の上昇だと考えることができる。したがって他者危害原則によって、人口レベルの健康の低減を回避するために、個人の権利を拒否することが正当化される。

 個人の権利を無効化するために公衆衛生への配慮が持ち出されるというのは、現行の新型コロナウイルスの流行を見てみればよくわかる。多くの国で厳しいロックダウンが行われ、個人の自由権が厳しく制限されたが、それは多くの命を救うということで正当化されてきた。また規模は違うが同種の実例として、公共の場での喫煙の禁止やシートベルト着用義務化などをあげることもできる。


 ところで、中絶反対派は、自身の見解の根拠を「胎児は人である」という主張におくことが多い。この主張が仮に正しかった場合、公衆衛生倫理に重要な含意をもつ。ここで仮定される胎児の人格性は、国家によって承認される必要があるとしよう。この時、公衆衛生の観点からは、子供や成人と同様に胎児の健康にも関心を持つべきだということになる。現在、中絶は世界中で年間約5000万件行われており、つまり年間約5000万人の胎児が死んでいる。新型コロナウイルス流行の想定死者数が4000万人だったことを踏まえると、中絶は新型コロナウイルスよりもさらに重大な公衆衛生上の危機だとみなさなければならない。この場合、胎児を保護するために、個人の権利を拒否して抜本的な対策をとることが正当化される。そして、中絶の数を大規模に、しかも一気に減らすため有効な唯一の対策は、中絶の禁止であるーーこのように、胎児は人であると前提すると、個人の権利を拒否して中絶を禁止することは正当化されると考えられる。

 以上の議論には反論が考えられるが、どれもうまくいっていない。

(1) まず、中絶禁止は実際の中絶件数を減らさないとよく言われるが、近年のデータによればこれは誤りである。
(2) 中絶禁止により闇中絶が横行し母体に被害が出るかもしれないが、中絶で死亡する胎児の膨大さと比較すると、やはり中絶禁止は正当化できる。
(3) 胎児は道徳的行為者性と自由意志を備えた「カント的」人格ではない一方で、母親は確かにカント的人格なので、単なる手段として扱ってはならない。すなわち、中絶を禁止することで胎児の容器扱いしてはならない、という反論もある。しかしこうした考えかたは、同時に乳幼児、子供、重度の認知障害者などを単なる手段として扱うことを正当化してしまう問題がある。
(4) 中絶禁止によって、親に望まれない子供が大量に生まれることが問題とされるかもしれない。しかし公衆衛生倫理の観点からは、第一の目標はまず人命を救うことであって、その後の結果については後から対処すべきである。実際、新型コロナウイルスの場合でも、仮に命をとりとめても長期的ケアが必要である人に対しても、まずは人命救助を優先して治療を行うことが求められる。命を救った後何が起こるかわからないという理由で人命救助を控えることはできない。

 以上の議論の矛先は、トムソンのヴァイオリニスト事例の向けられている。トムソンはこの事例によって、仮に胎児が人であったとしても、多くの場合母親の犠牲が大きすぎるので、中絶は正当化されると論じた。しかし胎児が人であるのならば、トムソンの議論の説得力は弱まる。というのはここまで論じてきたように、もし胎児が人であるなら、公衆衛生倫理の観点から言って、〔母親の権利を拒否して〕中絶を行うことが正当化されるからだ。

 公衆衛生を重視する社会で中絶が合法でありうるのは、胎児の道徳的地位が子供や大人よりも著しく低いと考える場合に限られる。

 なお、もし胎児が人であるなら、流産は中絶よりもさらに大きな公衆衛生上の危機だと考える必要がある。Toddy Ordによると妊娠の約60%は流産になり、年間では2億以上の胎児が死んでいることになるからだ(Ord 2008)。したがってこれに対しても抜本的な対策が必要だが、中絶とは異なり、流産はどうすれば防げるのかが明確ではない。また、流産の場合には胎児に対して故意に危害を加えている人は存在しないため、他者危害原則を適用するのが難しくなる。